岡田社長はかねてから池田に興味を抱いていた。1959年末、社長就任の際に小林大祐に言って池田と面談。社長の要望で翌1960年1月から数ヶ月に亘って池田・安福らが電算機を“講義”したという。
やっとIBMに追いついたと思ったら、IBMは1964年にSystem360を売り出した(設計は天才ジーン・アムダール、素子はIC)。これでGEもゼロックスも電算機市場から完全撤退。それを尻目に池田はLSIを素子とする電算機開発を構想。社内を説き伏せる。秘策は、IBMを辞めてシリコン・バレーに創業していたジーン・アムダールとの共同戦線。アムダールもLSI実用を考えていた。1972年、池田は若手35人をアムダールのもとに送り込む。こうして巨象と蚊の戦いが始まった。
実は、富士通が純国産からIBM互換機路線選択に舵を切ったのは、この時から。通産省も了解の上だった。同じIBM互換機路線を歩む日立(米RCAと提携)と組ませる程(電子政策課長・平松守彦<後に大分県知事>が田中角栄通産大臣の了承で5年間に当時550億円以上の巨額の補助金を業界に投入。対IBM作戦である)。この路線変更が後に上記の問題に発展するとは、この時は誰も思っていなかった。
アムダールの弁:「池田はとてつもなく優秀な男だ」。 ところが3年経っても難題山積で一向に進まない。LSIの発熱、配線の複雑さ(ざる蕎麦と渾名)。出資金は富士通の資本金を超えるようになって、中止の悲鳴が。アムダールは富士通が出資を中断するなら会社を即刻解散すると言う。水泡になる危機、池田をはじめ関係者は必死で防戦する。1974年10月ようやく完成の見込みがついた。
その矢先の1974年11月に常務・池田は他界したが、その1ヵ月後に “FACOM M-190”(アムダールの姉妹機はAmdahl 470/V6) が完成。IBM機の3倍の世界最速に、米NASAが第1号機を購入した。電算機牙城への初の進入だった。IBMは驚愕。「対抗馬は米ではなく地球の反対側からやって来た」 こうして日米技術者の夢がかなった。5年間で500台以上の売上げを達成。