日本のコンピューターのパイオニア、 池田敏雄





○ 池田敏雄
池田敏雄(1923〜1974年)は日本のエンジニアで、日本のコンピュータ開発のパイオニア。1970年から富士通役員を務め、死後に専務を贈られた。日本の汎用機黄金期を築いた業績から、没後に“富士通の池田敏雄・NECの水野幸男”と双璧として譬えられることも多い。日本のコンピュータ産業の父である。
富士通沼津工場には、 「池田記念館」 が作られている。そこには、同社のデジタルリレー計算機(FACOM128)が復元・展示されている。この開発には池田が陣頭に立って奮戦した。生みの親である。今でも補修を続けていて動くという。記念館設立に向けて、倉庫にバラバラに放り出してあったのを掻き集め、無い部品は手作りして復元。図面も亡くなっていて大いに苦労したそうだ。動態保存されている同様の計算機としては世界最古と言われている。

● 文武両道の池田
身長180cmの偉丈夫。柔道二段。1936年に東京市立第一中学(現都立九段高校)に入学すると、背が高かったためバスケットボール部に勧誘された。中学5年の全国大会では優勝。1941年旧制浦和高等学校(現埼玉大学)を受験し進学。12月には太平洋戦争が始まったが、1942年の全国大会は実施され、浦和高校が優勝。翌年以降は中止され、バスケット部は廃止された。
池田は東京工業大学電気工学科に入学。卒業後1946年に富士通信機製造株式会社(現富士通)に入社した。稲葉清右衛門と同期。3年後に山本卓眞(後に社長)、4年後には安福眞民(富士通の半導体部門を支えた)が恩師・向坊隆教授の勧めで入社。
社にバスケットボール部を創設し、1948年の国体で3位入賞するなど活躍。この際、池田は一試合で個人最高得点となる65点を記録し、全日本最優秀センター賞を受賞。この記録はいまだに破られていないという。

東工大、ああ懐かしい。私が学んだ高校・都立小山台高校の屋上からこの大学が望めた。だからという訳ではないだろうが我が都立校は、当時は東工大進学のtop校。学友が大勢入っている。池田はその大学OBなんだ。理系ながら総理になった私の高校後輩・菅直人も東工大。この屋上から遥かの校舎を眺めていたに違いない。


○ 池田の囲碁
池田は囲碁が強かった。浦和高校時代に覚えたという。池田の囲碁癖については、何人もの囲碁仲間達からいろいろ矛盾する感想が返ってくる。「恐ろしく速い碁だった」「攻め一本槍のケンカ碁だった」「バランスの取れた手堅い碁だった」「とにかく非常に手堅かった」「あの人の辞書には『守り』というのは無いのでは」と、とにかく同じ人物の碁風を評しているとは思えない。
池田の碁風を「手堅く、バランスが取れて、非常によく読み切っていた」と説明したのは石井康雄(当時・東京情報大学教授))。富士通で池田の部下だった時に、彼と2日間に連続74局打ち、1番手直りながら37勝37敗という記録を持っている人物だ。
実力は五段で、呉清源棋士やその弟子の林海峰と交流。林海峯は「池田さんは、攻め一本のケンカ碁だった」と評している。「池田さんと初めてお会いしたのは呉先生とご一緒。その時の池田さんの印象が強烈だった。というのは、呉先生の十番碁、これ昭和10年代のものなんですが、その時の勝負を池田さんは、何手目でこうなり、何手目でああなりましたね、と全部棋譜なしで呉先生に話したんですよ。これには仰天しました。僕らだって手順は追えますが、それが何手目かということまでは覚えていません。あの人は凄い。その意味ではコンピューターみたいな人です」    池田は日本式のルールについて論理的な問題点を見い出し、“ルールの合理化”を主張。中国ルールのほうが国際ルールに公認されてしまうと警告。その主張を「囲碁新潮」に1968年から1969年にかけて発表。その功績で六段、死後に七段を贈られている。日本棋院の免状が池田記念館に飾られている。

● 富士通訪問
私は富士通沼津工場を訪れている。米研究機関の訪日チームの会議後の見学先として、 こことロボットの忍野・FANAC鰍ェ候補に挙がった。その下見であった。富士通沼津工場では汎用機の製作工程を見る一方、池田記念館を見学。復元されたリレー式計算機は今でも動くというが、この日は実際に動かしてはくれなかった。池田のノートが展示されていた。端っこに詰め碁の図。なにか微笑ましかった。
米訪日チームの見学先は、FANAC鰍ノなった。産業用ロボット、NC工作機械の世界top企業。創業者・稲葉清右衛門が社長の時代。汎用機ではtopの米国、ロボットの方を選んだのは当然だろう。大型バスが着くと無人のゲートがスルスルと開く。ロビーに向かうとエレベーターが開いていて、黄色の制服に身を包んだ美しい女性が恭しく出迎える。乗り込んだチームの1人が、 「よく出来ているなー、これもロボットか」 なんて言って女性の胸を指で突く。
見学は大成功だった。工場現場は徹底してロボット化されており、人影は極めて少ない。全ては黄色。なんでも稲葉清右衛門が黄色を気に入ったため、徹底されて使われるようになったという。社有のバス、トラック、テーブルクロス、箸袋までが黄色になっている。これにも感銘を受けたようだった。 →  黄色い工場

○ 田原総一朗
ジャーナリストでノンフィクション作家の田原は、池田の足跡を詳細に書いた本を著している(文藝春秋、1992年9月)。彼は池田には会っていない。本のあとがきによると、田原が池田という人物の存在を知ったのは、1982年6月のIBM産業スパイ事件が起きて、その事件の周辺を取材した時だったという。池田は1974年に他界していたから。

● IBM産業スパイ事件
1982年6月に日立製作所や三菱電機の社員など計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を行ったとして逮捕された事件。IBMと日立は翌1983年に和解した。また1984年より、当初は当事者外であった富士通とIBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
IBMはアドレスを32ビットに拡張しオペレーティングシステム(OS)の一部をファームウェア化して互換機を作りにくくした汎用機の3081Kを発表した。互換機メーカーであった日立は3081Kに関する技術文書を、かねてからの提携会社・米NAS社から入手した。FBIによるおとり捜査が行われ、日立と三菱の社員が逮捕されることになった。
私はこれに仰天した。共に過ごした学友が捕まったではないか。日本はIBM互換路線を選択していた。ユーザーのソフト資産を守るため、そして販路を確保するために。米国だってRCAなどがIBM互換路線を採っている。日本では通産省も互換路線は認めている。公認の路線だ。産業スパイと言ったって、日本は提携先から情報を得ただけであって、違法に盗み出した訳ではないのに。逮捕なんてそんな馬鹿な、という気持だった。
米国は司法省が1969年に対IBM独禁法訴訟を起こしている。IBMの分割を目論んだ。ところがレーガン政権下、政府は方針を逆転し、1982年1月に同訴訟を取下げてしまった。「強いアメリカ」が旗印のレーガン大統領、国防・国務・商務と主要ポストを占めているIBMの息のかかった閣僚、そして今や場合によってはIBMとの共同歩調を辞さないATTから送り込まれた司法長官、これで完全な幕降しの役者が揃ったわけだ。そして訴訟の取下げへ。5ヵ月後の日本人逮捕の背景にはこんなことがあったのだ。
 
目次
プロローグ
第1章 池田敏雄との出逢い
第2章 無口な少年
第3章 「計算する機械」への夢
第4章 バスケットボールと囲碁
第5章 富士通に入る
第6章 0号機誕生
第7章 難問を越えて
第8章 10億分の1の世界
第9章 「社運を賭ける」
第10章 IBMの恐怖
第11章 若手スタッフの突き上げ
第12章 岐路に立つ
第13章 料亭会談での決定
第14章 池田、斬るべし
第15章 二日間だけの平安
エピローグ

○ 池田敏雄の挑戦
1951年に米レミントンランドが世界初の商用機を発売し、これが1952年のアイゼンハワー大統領の選挙予想に驚異的な成果を挙げたのを機に、世界はこぞって電算機導入に走った。これを見て富士通も開発に乗り出した。目標は東証向けの株式取引高精算用計算機(東大・山下英男教授から話を耳にした技術開発課長・交換機課機構研究室長・小林大祐が立候補)。池田のもとに3人が集められ熱海の保養所で缶詰になって設計に没頭。後に社長になる山本卓は3人の1人。山下教授が顧問役で参加。1953年に0号機が完成(素子は不安定な真空管を避けさんざん使っている機械式リレーを採用)。しかし東証は裏切って米電算機を導入したため0号機は日の目を見なった。。翌1954年に「FACOM100」を開発。早速 湯川秀樹博士が多重積分の計算に活用した。人手で2年かかる計算を3日でやってのけた。さらに1956年に約5,000個のリレーで「FACOM128」を開発。これは日本初の実用機でリレー式の不朽の名作と謳われる。文部省・統数研を皮切りに30台以上を売り上げた。その後、素子をパラメトロン、トランジスタ、ICと替えて進化。1960年に岡田完二社長が小林提案の専門工場の建設を命じる。1962年に電算機、そして池田に社運を賭けると決断。
岡田社長はかねてから池田に興味を抱いていた。1959年末、社長就任の際に小林大祐に言って池田と面談。社長の要望で翌1960年1月から数ヶ月に亘って池田・安福らが電算機を“講義”したという。
やっとIBMに追いついたと思ったら、IBMは1964年にSystem360を売り出した(設計は天才ジーン・アムダール、素子はIC)。これでGEもゼロックスも電算機市場から完全撤退。それを尻目に池田はLSIを素子とする電算機開発を構想。社内を説き伏せる。秘策は、IBMを辞めてシリコン・バレーに創業していたジーン・アムダールとの共同戦線。アムダールもLSI実用を考えていた。1972年、池田は若手35人をアムダールのもとに送り込む。こうして巨象と蚊の戦いが始まった。
実は、富士通が純国産からIBM互換機路線選択に舵を切ったのは、この時から。通産省も了解の上だった。同じIBM互換機路線を歩む日立(米RCAと提携)と組ませる程(電子政策課長・平松守彦<後に大分県知事>が田中角栄通産大臣の了承で5年間に当時550億円以上の巨額の補助金を業界に投入。対IBM作戦である)。この路線変更が後に上記の問題に発展するとは、この時は誰も思っていなかった。
アムダールの弁:「池田はとてつもなく優秀な男だ」。  ところが3年経っても難題山積で一向に進まない。LSIの発熱、配線の複雑さ(ざる蕎麦と渾名)。出資金は富士通の資本金を超えるようになって、中止の悲鳴が。アムダールは富士通が出資を中断するなら会社を即刻解散すると言う。水泡になる危機、池田をはじめ関係者は必死で防戦する。1974年10月ようやく完成の見込みがついた。
その矢先の1974年11月に常務・池田は他界したが、その1ヵ月後に “FACOM M-190”(アムダールの姉妹機はAmdahl 470/V6) が完成。IBM機の3倍の世界最速に、米NASAが第1号機を購入した。電算機牙城への初の進入だった。IBMは驚愕。「対抗馬は米ではなく地球の反対側からやって来た」    こうして日米技術者の夢がかなった。5年間で500台以上の売上げを達成。

「FACOM100」の前
   左:池田 右:湯川秀樹

      契りの杯

アムダールと阿蘇にて
1970年秋、会社設立直後のアムダールを日本に招待、京都、奈良、阿蘇と2週間の旅。 クラシック、文学と話題は尽きなかった。

○ プロジェクトX
中島みゆきのあのテーマ曲が耳に響く。池田は2002年4月9日放送のこのNHK番組で採り上げられた。題して『国産コンピューター、ゼロからの大逆転−伝説のドラマ』。


○ 計算尺
別稿のコンピューター史、その表のトップに出てくる 『計算尺』 、私にも馴染みのものだ。逸見製作所(現・ヘンミ計算尺)の高価なものを買って利用した。ということは、私はこの年表の始めから終わりまで殆んどの項目を体験しているということだ。我ながら感心してしまう。
高性能の関数電卓が普及するまで計算尺は数理系の研究者にとって必須のアイテムであり、マンハッタン計画やアポロ計画の記録映像などにおいても科学者が現場で用いていた。映画の『アポロ13』でも司令船の航法コンピュータの電源を切る前に、軌道計算を検算する場面で登場している。史上初の原子炉の主要人物であるエンリコ・フェルミは、計算尺の達人であったという。また米ソのロケット開発の元祖であるフォン・ブラウンやセルゲイ・コロリョフらも常時携帯しており、日常のちょっとした科学的概算に使用していたという。
算盤が普及していた日本では計算尺が使われる頻度は欧米に比べれば低いものの、日本製の計算尺は竹製で狂いが少ないと高く評価され、第二次世界大戦までは盛んに輸出されて世界シェアの80%を占めた頃もあったのだ!!

● 私のコンピュータ歴
大学で紙テープにAlgolのプログラムを鑽孔し、オキタックのコンピュータで動作させたのが最初。すぐに入力装置はカード読取機となってIBM機を使う。プログラム言語はFORTRAN。大学院時代は麹町のIBM計算センターに通ったものである。社会人となると、電発の計算センター子会社のIBM機や三菱総研のIBM機を利用して研究にいそしんだ。
そうこうしているうちに、世の中は汎用機からワークステーション、パーソナルコンピュータ(PC)とダウンサイジング。あっという間にPCが脚光を浴びるようになってしまった。私もNECのTK−80(1976年)で勉強。TKとはTrainingKitのことで、マイコンを学ぶのに最適だった。半導体チップの劇的は進歩で研究はPC上で十分な時代となる。OperationSystemも、UNIX、Windows、と変遷が目まぐるしく追随するのが大変だった。この間、わずか30〜40年なんだから凄いもんだ。

○ コンピュータ開発史
そんな仕事がら、私はコンピュータ開発史に興味を持った。いろんな本を買い漁っては読む。雑誌の特集記事に目を凝らす。そんな折に手にしたのがこの本。衝撃を受けた。IBM、富士通・池田以降のダウンサイジング、特にパソコン開発史に限られるが、私が今まで掻き集めた知識が全て書かれているではないか。もっと早くこの本に出会っていれば労力は20%で済んだものを。唖然としてしまった。
   
富田倫生(とみたみちお
「パソコン創世記」
TBSブリタニカ、1994年12月
目次
序章  パーソナルコンピューターの誕生
第1章 コンピューター本流が描いたもう一つの未来像
第2章 奔馬パソコンを誰に委ねるか
第3章 恐るべき新人類たちの夢想力
第4章 PC‐9801に誰が魂を吹き込むか
第5章 人ひとりのコンピューターは大型の亜流にあらず
第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
エピローグ   魂の兄弟、再び集う

○ 富田倫生氏
その後、富田氏は時の人となった。「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)を主宰する人として。250人のボランティアを率いて文庫の蔵書の追加に勤しむ毎日。1日12時間もパソコンに向かうという。
「青空文庫」とは、1997年8月に4人で始めた公共電子図書館。富田氏の『パソコン創世記』が1ヵ月後にあっさりと廃刊になったことがきっかけ。断裁処分に逢ってしまった。氏はショックで入院。復帰後、著書のCD-ROM版を作った。  彼曰く「地球上には、コンピューター開発史を記録したいという共通の意思があって、淡い光を放つネットワークで結ばれている。その港の役割をするのがこの本だ」。自分の本の命を維持する執念だった。  そうした努力を契機に「本のカタチが溶け出した」。

今では、「青空文庫」の蔵書は1万冊を超え、入力中も常時数百冊。著作権の切れた作品が中心だ。文庫には毎日5000人が訪れる。読み上げソフトを使えば音で聞けるから視覚障害者が利用しているし、弱視者向けに活字の大きい本の出版も可能になった。無償の活動が大きなうねりを起こしている。
残念なことに、富田氏は2013年8月に肝臓癌で亡くなってしまった。享年61。入退院を繰り返しながらパソコンに向かい続けた晩年。「背中を丸めて毎日コツコツと土曜も日曜も地味な作業をやっていました」   妻の晶子さんには夫の姿が、自らの羽根を抜き取って布を織り上げる民話“鶴の恩返し”の鶴と重なって見えた。
9月のお別れ会では、マイクロソフト出身で慶大教授の古川享氏、ジャーナリスト・田原総一郎氏らが嘆きの声を発したという。文庫を支える「未来基金」が創設され、富田氏の意思は受け継がれている。